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嘘を吐いた本当の話

加藤シゲアキ初の短編連載『アンドレス』を読んだ。連載ということで掲載誌『SPA!』を毎週欠かさず購入したのだが、これはなかなかの苦行だった。すでにラジオにもメッセージが届いているように、掲載誌の内容が内容であるため、特に女性にとっては非常に買いづらいものだったと思う。今後、もしまた連載の機会があればもっと買いやすい雑誌に掲載してほしいと切に願う。

以下、『アンドレス』についての個人的な感想のような解釈のような。おおいにネタをバレる。

 

連載初回の掲載号に、「現役ジャニーズ作家による初のサラリーマン小説が連載開始!!」という見出しでインタビューが載せられていた。そこで加藤シゲアキは「『SPA!』のナマっぽさにインスパイアされた」と述べている。確かに『アンドレス』の内容はこれまでの三部作や短編小説『染色』とはまた毛色は異なり、誤解を恐れずに言えば「けがらわしい」印象を受けた。それは日常生活に潜む小さな汚れのようなものであるし、非日常的な体験によって芯から腐ってゆく感覚のようなものでもあった。そういったなまぐささが作品全体を覆っていて、そこから感じられる居心地の悪さこそが『アンドレス』最大の魅力だと思う。

ラジオで「登場人物は全員『どこかイヤなやつ』にしたかった」と言っていたが、その思惑は正しく機能していると言える。主人公たる大西勝彦はやり手のサラリーマンとでありながら、その実自己保身を第一とする嫌われ者。大西の恋人の若井リサは不倫のために大西を利用し、演技で思い通りの道を勝ち取るしたたかな女。石田も妻子ある身でありながらリサと不倫をし、小金井は猫を被って大西に取り入り、最後には冷徹な裏切り者となる。だれが一番悪いということではなく、だれもが一番に悪く、そしてだからこそ、だれも悪くないという理論が成立してしまうことが恐ろしい。責任の所在を明らかにできない不安がとめどない嫌悪と恐怖を与え、作品そのものの「けがらわしさ」につながっていく。到底ハッピーエンドとは言えないラストも含め、『アンドレス』には過去の作品にはない新鮮さがある。

 

個人的な好みを述べるなら、わたしは若井リサのようなしたたかで意地の悪い、えげつないことを平気でやってのける女性は嫌いではない。彼女は大西との付き合いの中で彼の性質を正確に把握し、そのうえで予測を立ててあの「別れ話」に持ち込んだのだ。こう言えば大西はこう答えるだろうという絶対の自信があったからこそ、「母が倒れたの…」などとしおらしくしてみせることができた。もし大西が「それは大変だ、一緒に福井の田舎に行こう」と熱くなるタイプだったとしたらはなからこんな嘘は言わなかっただろう。結果として彼女は石田との不倫生活に没頭することができるようになり、その計算高さをもってして勝利を勝ち取ったのだ。好きな人との幸福のために自ら嫌いな者のものになることはなかなかできたことではなく、それだけ石田への愛の強さが感じられる。当然のことながらそれは純愛と呼べるものでは到底なく、行為の是非についても別問題となるが、その熱い心意気は素直に称賛したい。

大西はリサのことを幼稚だと、石田は自分も含め彼女も頭が良くないと言うが、それはまったくの間違いである。あえて言うなら、この作品で一番の悪役は若井リサかもしれない。そう畏怖の念を抱いてしまうほどリサと大西の別れのシーンからは鬼気迫ったものを感じた。

わたしはこの物語に最悪のエンディングを予想していた。つまり、石田とリサに利用され小金井に裏切られたと知って絶望した大西が、自ら命を絶つのではないかと、5話を読み始めた時点で少しハラハラしていたのだ。ハラハラしつつ、期待もしていた。そうなったらどんなに救いがなく、後味の悪い物語になろうかと。安易ではあるかもしれないが、非常に衝撃を与えるドラマティックなエンディングになるだろうと、胸を高鳴らせながらページをめくっていった。しかし、そうはならなかった。大西は脱いだスーツを3日と経たないうちに再び着ることになり、「調和のとれた美しい」ジオラマの中にまた溶け込む人生を歩むと決めた。

正直に言えば、つまらなかった。結局彼はドラマティックな終わりを迎えることもなく、また長年慣れ親しんだ安寧の道を歩んでいくのかと、落胆した。しかしふと、ここに至って大西勝彦という人間の、きわめて人間的な弱さをいとしく感じる。彼は結局、変わることのできないただのおじさんにすぎなかった。脱サラだの、若い女性社員との恋愛だのと言っていても、ついには社会の部品のまま物語を終えるしかない存在だったのだ。わたしたちが見ていたのはやり手サラリーマンのさわやかな脱サラストーリーではなく、帰りの電車でよく見かける疲れたおっさんの丸い背中だったのかもしれない。そう考えると、その背中にそっと手を当てたい気持ちもしてくる。

 

『アンドレス』の居心地の悪さは、最終的になにも解決しないところにある。社会における自分はジオラマの部品のひとつなのだと不安を煽ってくるところにある。それでも、それが独特な親近感をもって自分の中に入り込んでくるのは、いかにも「人間らしい」感情と行動原理をもった登場人物のおかげであり、その立体的なつくりが非常に「ナマっぽく」感じられるからだと思う。そしてそれを書いたのが「現役ジャニーズ作家」なのだから、常日頃アイドルを天上の存在として崇めてきたわたしも、ここにおいて「アイドル実在論」を認めざるをえない状況に立たされている。