読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

彼らと彼女らの1と12分の7

劇団四季の『ウェストサイド物語』を観た。最後に本作品を観たのは前回の東京公演千秋楽、2012年12月24日であり、実に約3年2か月ぶりとなる観劇だ。忘れもしないあの千秋楽の日、わたしの魂は完全に、完膚なきまでに燃え尽き、四季劇場・秋の地に置き去りにされた。しかし、その魂が長いときを経ていまふたたびわたしの身体に戻ってきたのだ。わたしの魂、わたしの青春とも呼ぶべきミュージカル『ウェストサイド物語』。緊張から生じる激しい腹痛に苛まれながらもわたしは果敢に平静を装い、席に着いた。

今回の『ウェストサイド物語』は新演出によって前回公演から大きくリニューアルされている。演出家であり振付師でもあるジョーイ・マクニーリー氏の指導のもと、キャストの皆さんが稽古に励みながら、新たな伝説となる『ウェストサイド物語』をつくりあげていくさまが、日々公式Twitterにて写真とともに紹介されていた。大好きな作品が生まれ変わっていく様子をリアルタイムで目撃することができるのはまぎれもない幸福であり、そうして制作陣の情熱を近くに感じられるのはとてもありがたいことだった。『ウェストサイド物語』がどんなふうに生まれ変わるのか、観劇するその日まで期待は膨らみ続けた。

一瞬のまばたきすらも惜しかった。初回の観劇中は幕が上がってから幕が降りるまで、すべてがまったく新鮮ですべてに躍動感が増していて、与えられる情報量の多さに、頭を常にフル回転させていないと振り落とされてしまいそうなほど、すべてが圧倒的だった。歌も、ダンスも、そして演技、舞台装置や照明、音響、オーケストラ、一瞬の休息もなく目の前で展開される物語は、間違いなくわたしの愛した『ウェストサイド物語』であったし、それでいてわたしの知らない『ウェストサイド物語』だった。素晴らしい。下手に言葉を飾るよりも、ただこの一言に尽きる。本当に素晴らしかった。

 

さて、あまり前置きが長くなってもいけないので、ここからは今回の新演出と前回の演出(便宜上「旧演出」と表現することにする)とを比較しながら、『ウェストサイド物語』というミュージカルそのものについてわたし自身の考えたことや感じたことを述べていく。あくまで一個人が、主観的に舞台の上から感じ取ったものを頭の中でこねてこねまわして形にしたものであるため、仮に納得のゆかない部分があっても多少はお許し願いたい。また、さも当然のようにネタバレをしているので、というかネタバレでしか構成されていないので、未見かつこれから観劇のご予定がある方はご注意されたい。

 

 

0. 大きな変更点

まず、新演出と旧演出をわかりやすく比較するためにも、覚えている限りで前回公演と異なる箇所を箇条書きにしていく。前回と言っても3年も前のことなので記憶が曖昧になっている箇所もあるかもしれないが、特に印象的だった、また新旧比較において重要と思われる変更点を中心に、わたしの中の記憶を引っ張り出して照らし合わせていこう。

 

・ジェット団・ジーターの不在

驚くべきことに「ジーター」というキャラクターが存在ごと消されている。正直に言ってしまえば確かに影の薄い役ではあったが、ところどころで台詞もあったので非常に寂しい。ジーター、君のことは忘れない。

 

・舞台装置が豪華

舞台装置がずっと立派に、ずっと豪華になっていて驚いた。しかし、前回のようなシンプルな装置で物語が進むよりも、今回の方が状況を視覚的に把握しやすくなり、観客としてはかなり良い状況になったと思う。

 

・ジェット団のジャンパー着用がリフのみ

ジェッツ全員が色違いで着用していたはずのジャンパーを今回はリフしか着ていない。個人的にこれは非常に重要な変更点のひとつであると感じたし、なによりも色違いお揃いジャンパー姿が見られないのは寂しく感じた。

 

・プロローグ~ジェットソングのジェッツの演技が自然

前回と比較しても特にジェッツの演技が非常にブラッシュアップされ、ナチュラルなものとなっていた。「1950年代」「ニューヨーク・ウェストサイド」「プアホワイトの少年たち」というキーワードが、実際に体感として知らなくてもすとんと納得できるような、そんな自然さがあった。

 

・ドアの文字を塗り直すトニー

数多ある変更点の中でもこのうえなく重要なもののひとつ。リフがトニーをダンスに誘うシーンで、旧演出のトニーははしごの上に載って看板のペンキを塗り直していたが、新演出では出入り口のドアの文字を直していた。⇒1.②

 

・ブライダルショップの出入り口が逆

前回は下手側に出入り口があり、上手側に裏口があったが今回は逆になっていた。

 

・姿見・手鏡の不在

旧演出のブライダルショップには姿見があったが、新演出では消去されており、白いドレスを着たマリアと彼女の肩を抱くアニタは客席を姿見に見立てていた。また、「アイ・フィール・プリティ」の「見てよ 鏡の中を」とマリアが手にした鏡を見るシーンも、手鏡ではなく客席に向かって歌っている。非常に興味深い変更である。⇒1.④

 

・よりセクシーなジェッツ女子のドレス

グラジェラのスカイブルーのドレスがオレンジに、クラリスのドレスがワインレッドからシックなグリーンかつ短い丈に変更されていた。マクニーリー氏の言う「もっと魅力的な女性であることをアメリカ人はPRするだろう*1」という意図があってのものだろうか。

 

眼鏡っ子ではないロザリア

シャークス女子の中でもっとも小さく、もっとも「ダサい」印象を受けるキャラクターだったロザリアは、かつては大きな眼鏡を掛けどこか田舎っぽいドレスを着ていた。今回からトレードマーク的でもあった眼鏡がなくなり、ドレスもより女の子らしいデザインとなっている。とてもかわいい。

 

・子どもじゃないグラジェラとヴェルマ

「クール」前、リフに子ども扱いされ反発するグラジェラとヴェルマ。その際、ヴェルマの口癖でもある「ウーブリウー」という掛け声があったのだが、今回は「ウーブリウー」ではなく、直前のエニイ・ボディズの「パンパン!」を小馬鹿にしたような「プウプウ」という台詞に変更されている。

 

・軍事会議、アニタへの暴行シーンがドックの店外、地下室のシーンカット

今回はドックの店内がクール前の1シーンでしか出てこず、かつて店内で行われていた軍事会議とアニタへの暴行が店外となっていた。また、トニーが隠れていた地下室のシーンはなくなり、騒動が収まってからトニー自ら店外に出てくるようになっている。マクニーリー氏は「すべての物語をストリートで展開させる*2」と述べていたが、これも非常に重大な変更だと思うのでのちに詳しく述べたい。⇒1.③

 

・ジェッツとシャークスの野球

前回は軍事会議中にシュランクが乱入してきた際、ジェッツ・シャークスの面々は各々屋内の遊戯に興じるふりをしていたが、会議の場が店外となったことで即興の野球ごっこに変わった。緊迫感のある中でもコミカルさがあり、しかしそれでも拭えない緊迫感にいっそう場が張り詰める効果があった。

 

・疑似結婚式でのトニー

「ワンハンド・ワンハート」において、マリアが花嫁のベールを被るのは変わらないが、トニーがブライダルショップの衣装であるシルクハットと黒のタキシードコートを身に着ける点が追加されていた。より疑似結婚式らしさが増し、その後の悲劇を思うとやるせなさも増す。

 

・五重唱でのそれぞれの立ち位置

旧演出の「トゥナイト五重唱」でジェッツ・シャークスは段を作って並んでいたが新演出では段差がなく、各リーダーを中心に全員横並びの配置となった。また、前回は上手下方にいたアニタが下手上方の建物内に移動し、立ち位置がマリアと対になるような構図となっていた。⇒1.②

 

・より高くなったフェンス

決闘の場面での「フェンスを乗り越える」という動きがなくなっていた。個人的には非常に重要な変更点だと感じたので詳述。⇒1.②

 

・コンスェーロが金髪

金髪の一房混じったロングヘアだったコンスェーロが完全なるブロンドのボブになり、カチューシャも着けていた。正直とてもかわいい。

 

・ピストルの所在

チノがマリアの部屋から持ち出したベルナルドのピストルは今回、どこからか入手してきたぺぺが屋外でチノに手渡している。その際、ペペの真っ赤なバンダナで覆われていたことも印象的だった。⇒1.①

 

・「サムホエア」での白衣装

新演出の「サムホエア」では男も女も、みな一様に白い衣装をまとっている。旧演出では、特に女子は普段着のような淡い色合いのドレスを着ていたがすべて白に統一されており、舞台の上で冴えるような白の群衆が非常に印象に残った。『ウェストサイド物語』の中でも特に重要なナンバーである「サムホエア」でのこの演出には、考えさせられることが多くある。⇒1.①

 

・クラプキ役がディーゼル

ジェッツが歌うナンバー「クラプキ巡査どの」において、前回はクラプキをスノーボーイが演じていた。しかし、おそらくジーターの不在により役柄変更となったかと思われる。「ほんとはみんないいこ♪」と歌うディーゼルがもう見られないことは少し寂しい。ジーター、君のことは忘れない。

 

・明らかに「事後」なトニーとマリア

アニタがマリアの部屋を訪ねた際、トニーは上半身裸だった。視覚的にわかりやすい状況となったかもしれないが、そこまであからさまにすることでもなかったのでは、と個人的には思う。

 

・「あんな男に/私は愛してる」でのアニタとマリア

旧演出においては上手側にマリアがおり、ベッドに腰掛けたアニタに縋るように抱きついていた。しかし新演出では下手に移動したうえ、ふたりが抱き合うナンバーラストも両者ともに床にくずおれるような形となっている。愛する兄を殺したのが愛する男だったマリアの、愛する男を殺したのが愛するマリアの愛する男だったアニタの、ふたりの際限のない悲しみと怒りが舞台上に渦巻いているように見えた。

 

アニタの喪服

ベルナルドが死んだあと、全身黒の喪服に着替え黒のショールを被るアニタ。前回は緑のワンピースに黒のショールだったが、思いきって全身を黒に染めることで喪に服している印象がより強くなり、その後アニタを襲う悲劇がいっそう痛々しく映る。

 

アニタ暴行シーンでのベイビー・ジョーン

新演出でもっとも衝撃を受けたといっても過言ではないアニタ暴行シーンでの大幅な、大幅すぎる、大幅すぎてもはや目的がわからない、大幅な変更。旧演出ではベイビー・ジョーンが他のジェッツに抱え上げられ、アニタの上で無理やり動かされることで「性的暴行への参加を強要されている」感が出ていたが(実際、ベイビー・ジョーン役の役者の演技もいやがるようなものだったと記憶している)、今回は自ら暴行に加担している。ベイビー・ジョーンというキャラクターの根幹をゆるがす大問題であるので詳細は後述する。⇒2.

 

・マリアの絶叫

トニーが息絶えたあと、マリアはすすり泣くのではなく声の限りを尽くして泣き叫んだ。重苦しい沈黙の中悲痛に響くマリアの叫泣、彼女が最後に見せた心の内側に、頭を殴られたような衝撃を受けた。

 

・トニーの遺体を運ぶ人数

旧演出においてはジェット団3人が持ち上げようとしたところにシャーク団1人が手を添えていたが、新演出ではシャーク団が2人なっている。

 

・マリアにショールを掛けるロザリア

旧演出では、マリアが立ち去る直前、彼女にショールを掛けるのはベイビー・ジョーンの役目だった。しかし、新演出ではその役がロザリアに変更となり、かつ、マリアはショールを掛けないまま立ち去っている。悲劇の幕が閉じようというこの印象的なシーンでの変更は、いったいなにを意味するのだろうか。⇒2.

 

 

1. 『ウェストサイド物語』における二項対立

今回、新演出版の『ウェストサイド物語』を観て強烈に感じたのは、通底する徹底した「二項対立」主義である。旧演出に要所で変更を加えることにより、あらゆる場面において「二項対立」が丁寧に浮き彫りにされ、そして保持されたまま物語が進んでいく。それはこのミュージカルのもつ類まれな悲劇性、芸術性をよりいっそう引き立てるはたらきをしている。

そもそも『ウェストサイド物語』とは、『ロミオとジュリエット』をモチーフにふたつの若者グループの抗争、そのはざまで生まれた恋を描いた作品である。最大公約数的な前提条件として「対立」というテーマがあり、その構造を基盤に物語が肉付けされているのである。『ウェストサイド物語』の本質がこの「対立」にあるということは明白な事実と言っても良いだろう。そこで、ここでは新演出/旧演出の異なる点、あるいは双方に共通する点を照らし合わせながら、この「二項対立」を軸に『ウェストサイド物語』という作品をわたしなりに解いてみたい。

 

①赤と白⇒俗と聖/現実世界と理想世界

『ウェストサイド物語』の中でもっとも印象的な色は赤と白である。演目名の文字デザインからしても赤/白を基調にしたものであるし、赤と白の鮮烈な対比はこのミュージカルの根幹をなしているように思える。初めに、この赤と白の「二項対立」について考えてみよう。

『ウェストサイド物語』において、赤とは現実の色だ。このミュージカルで赤が使われているシーンを一つひとつ追っていくと、まずわかりやすいのはマリアの衣装において赤色が果たしている役割である。ダンスに参加する前、アニタに襟ぐりを開けるよう必死に頼むマリアの台詞に「せめて赤く染められないかしら」「白なんてベビー服だわ」といったものがある。つまり、赤は大人の色、大人の女性の色であり、マリアは「赤」の存在に憧れていることが繰り返し描かれる。結局、ベルナルドの意向を汲んだアニタの強固な反対により、マリアはダンスに白のドレスを着ていくことになるが、その際(実際にはブライダルショップでのシーンの時点からだが)真っ赤な靴を履いていることには特に注目すべきだろう。

トニーと運命的な出会いをはたすシーンでのビビッドな赤い靴は非常に示唆的であり、彼女がすでに大人の世界に「足」を踏み入れていること、大人になることへの前兆が否応にも感じられる。果たして、マリアはトニーとの出会い、恋を通して無垢なる少女から芯のある女性へと成長し、否、成長させられていく。その証拠に二幕冒頭の「アイ・フィール・プリティ」では、それまでのマリアを象徴するような白ではなく紅梅色のドレスを身にまとい、シャーク団の女子たちに「どうしておめかししているの」とからかわれるのだ。なにも知らない彼女たちはチノのためだとしか思わないが、それは違う。マリアはトニーのため、自分の中の大人を、大人の女性を見せるためにおめかししているのである*3。恋によって大人の世界に一歩「足」を踏み入れたが最後、少女は「赤」の世界に身を投じていく。

作中マリアを諭し、導く「大人」の存在たるアニタがベルナルドのために化粧をして着飾ったように、マリアも愛するトニーのため、「白」から大人の女性の象徴である「赤」へと自ら変貌する。ラストシーンにおいて目に痛いほどの真っ赤なドレスで身を固めたマリアに、襟ぐりを開けてもらえず拗ねていたかつての少女の面影はない。この現実世界でのマリアの成長に、赤色は常時圧倒的な存在感をもって寄り添っている。

次に注目すべきは赤い照明の用いられ方である。ジムでの迫力あるダンスシーンは赤い照明に照らされる中激しく繰り広げられ、ジェット団/シャーク団両者の対立をいっそう鮮やかに引き立てる。両者が互いに抱きあう怒り、憎しみといった激情がダンスと照明の相乗効果でより真に迫るようだ。「クール」で怒りを抑え、抑えきれずに踊るジェット団の少年少女たちを照らす照明もまた赤い色であることから、このミュージカルにおいて赤は怒りを表す色として効果的に、そして印象的に使用されていることは間違いないだろう。

そしてもうひとつ、トニーとマリアの運命的な恋も赤によって強調される。ふたりが出会うジムでの赤い照明は言うまでもないが、「トゥナイト」の日本語歌詞にも「世界の空 赤く燃えていくよ」とあるように、ふたりの出会いが物語の世界を赤に染めていく。このミュージカルにおける赤色には怒りだけでなく、愛しあう喜びも含意されているのだと考えると、『ウェストサイド物語』の悲劇を皮肉っているようにすら感じられる。悲劇の中で生まれた愛、愛を引き裂く悲劇、この二律背反をひとつの色が担っているとすると、『ウェストサイド物語』という作品にとって赤がどれだけ深い色か窺い知れる。

最後に、赤が表す視覚的にもっともわかりやすいものと言えばなによりも「血」だろう。のちにまた詳しく述べるが、「サムホエア」で死んだはずのリフとベルナルドが舞台に出てきたとき、白いシャツの刺された箇所に血のりがついている。また、チノがペペからピストルを受け取る際には、ピストルは赤いバンダナに覆われていた。その後そのピストルでトニーが射殺されることからも、赤はそのまま「死」を司っていることが容易に考えられる。リフの死、ベルナルドの死、そしてトニーの死。マリアの成長に赤が伴ったように、彼らの死にもまた、まるで死神のように赤がついて回る。血の赤は視覚的情報としてのわかりやすさとともに、込められた意味を観客に想像させ、物語により深く加担させる効果をも発揮する。

大人になること、怒りや憎しみ、運命、そして死。もともと強い性格をもつ赤という色が、ときに背反しながら、そしてときに幾重にも相乗しながら、ひとつの物語において実にさまざまな役割を果たす。それらすべてがキャラクターの「現実」と密接に関わっていることからも、『ウェストサイド物語』における「赤」は現実の色であることが受け取れるだろう。

では、相対する白はなにか? 二項対立の構造を思えば答えを導くことは困難ではないだろう。現実の反対、つまり理想である。本作品における白とは理想の世界そのものであり、ビビッドな印象を与える赤とはまた異なる性質をもって、舞台上を鮮烈に「彩る」。

しかし、赤と比較すると白が舞台に登場する頻度はそこまで多くはない。もっとも印象的なものはジムでマリアが着ている「ベビー服」のようなドレスと、「サムホエア」でキャラクター全員が着ている白い衣装だろう。前者ではまだ恋を知らない少女のマリアがもつ無垢さを観客に提示していることは明らかだが、より興味深いのは後者での「白」が果たす役割である。

そもそも「サムホエア」というナンバーはこの作品において特に異彩を放っている。舞台装置や装飾がいっさい存在しない、いわゆる「素舞台」で、役者のダンスや演技のみで世界がつくられていく。突然現れ出る「何もない」世界に観客は驚きながらも、その「何もない」に意識が引き込まれていく。その世界には「現実世界」のような争いや憎しみは初めから存在しない。真っ先に飛び出してくるベイビー・ジョーンは舞台を自由に駆け回り、笑顔で跳び回る。そして、その様子を見たジェット団/シャーク団の少年少女たちも、年相応のあどけない笑顔で、ジェット団とシャーク団の別なく、ジェッツの少年はシャークの少女と、シャークスの少年はジェットの少女と踊るのだ。振付の中に胸いっぱいに息を吸う動きがあることからも、「サムホエア」の世界ではだれも自由に呼吸をし、笑い、動き回ることができることが伝わってくる。しかし、忘れてはいけない。それは単なる夢想の世界に過ぎないのである。

トニーとマリアの言う「どこか」、サムホエアはあくまで「理想」であり、悲しいことに彼らのひとときの現実逃避でしかない。その「理想」が白一色に染められていることは、物語での白が担う重要な役割を強烈に印象づけている。赤が現実の色ならば、白は理想の色。俗世にまとわる色と聖域を構成する色。両者の「対立」は徹底されている。

赤と白、二色が織りなす「二項対立」について考えたところで、ふと、興味深い事実に気づく。一幕ラストで息絶え横たわるベルナルドとリフである。ベルナルドは真っ赤なシャツを、そしてリフは真っ白なシャツを着ているのだ。サーチライトがうごめき、鐘の音が響きわたり、対立していたジェット団とシャーク団のリーダーはこの世を去る。舞台を、そして客席を支配する重苦しい空気の中で、赤と白の「対立」は逃れようもなく残酷な事実として、観客にのしかかってくる。

 

②天と地⇒女と男/敵と仲間

次に、劇中における「天と地」について、どのような「対立」が隠されているか考えてみよう。ここで言う「天と地」とは言い換えれば「上下」のことであり、さらにわかりやすく言うならば「上方と下方」であることを最初に明らかにしたい。

ここでは新演出での変更点、「はしごに載らないトニー」と「フェンスを乗り越えるシーンのカット」が重要となってくる。つまり、キャラクターが上方=天と近くなる場面が意図的にか、削られているのである。単純に考えるならば、トニーをはしごから地に降ろすことで見下ろす/見下ろされるという関係を解除してトニーとリフの対等感を増幅させ、のちの「トゥナイト五重唱」での段差のなくなったジェット団とシャーク団の並び方にもナチュラルな対等性を添えている。しかし、真に重要なのはここではない。「天と地」という視点に立って舞台を見たとき、「天」にいることを初めから許されているキャラクターがふたりだけいる。マリアとアニタである。

マリアは「トゥナイト」において、アパートの非常階段に出てきて下方にいるトニーに呼びかける。彼女に与えられた立ち位置は最初から上方にあり、「トゥナイト五重唱」でも同様に非常階段から美しい歌声を聴かせている。そして、アニタは旧演出とは異なり、「トゥナイト五重唱」での立ち位置は下方から上方へ、マリアと対になる場所へと変わっている。聖女、優雅さを名に冠した「よそ者」の「女」だけが「天」に立っていることは非常に興味深い演出であり、彼女たちの強さや美しさ、手の届かない高貴さがより強く感じられる。

ここで、「トゥナイト」ではトニーもマリアと同じ位置にいると思われる方もいるだろう。まさしくその通りなのである。マリアとアニタの特性を確認したところで、もう一度視点をトニーに転じてみよう。彼はマリアに呼び止められ、彼女に降りてきてくれるよう頼むが断られる。ストーリー上は兄のベルナルドが帰って来るからということになっているが、この部分も示唆的であり、マリアがあくまで「天」の存在であると意識させられる。降りてこない愛しい人にしびれを切らしたトニーは「上がっていくよ」と宣言し、自らマリアのいる非常階段へ上がっていく。つまり、トニーは下方から上方、「地」から「天」に行くことのできる作中唯一の稀有な存在なのだ。

リフがダンスに誘うシーンで、トニーがはしごに載っていなかったことの重要性にもこれで納得がいく。つまり、初めにはしごという高い位置にトニーを置いてしまうと、マリアとアニタが元来有する「天性」が失われてしまうからであり、「地」という前提条件を与えられたトニーだけが上昇できるのは、彼が「中立地帯」を体現していることをいっそう強く打ち出すためではないか。

自らが白人系であること、マリアがプエルトリコ系であることにこだわらず、敵対するグループのリーダーであるベルナルドにも友好的に接しようとする。トニーのそうした純真で中立的な立場を、上方と下方、天と地を行き来させることで表現しているととらえることができる。ランブルにおいてフェンスを乗り越えるシーンがなくなったことも、トニーの唯一性に説得力をもたせるためと思えば筋が通るだろう。トニー以外の男はだれひとり、どんな場合であれ「天」に近くなることは許されないのである。この物語に登場する男性で、トニーだけが中立なのだ。「天と地」のからくりはそのことを如実に表している。

もうひとつ、ふれておきたいのはアニタの扱いである。マリアと同様の立場を与えられたアニタだが、物語の後半で彼女を襲う悲劇には思わず目をそむけたくなる。彼女は「敵」であるジェット団の少年たちにこづき回された挙句、地に押さえられ無情な暴行を受ける。このシーンは明朗で高貴なアニタという女性を踏みにじりきる行為であり、それだけですでにショッキングであることは間違いないが、それと同時に上方にいた者を下方に引きずりおろす性格をもはらんでいる。観客の無意識下に恐怖や怒りといった感情を呼び起こすのは、暴行の事実に加えて天地の関係性があるからこそとも言えるのではないか。

そのうえ、『ウェストサイド物語』における女性の扱いもまた、「天と地」の対立を考えたときに奇妙であることも指摘しておかなければならない。マクニーリー氏が言うように『ウェストサイド物語』は本来非常にマスキュリンなミュージカルであり*4複数の女性キャラクターが中心となるナンバーも「アメリカ」「アイ・フィール・プリティ」しかない。しかし、たったそれだけでも、この国に暮らすプエルトリコ系移民の少女たちのしたたかさやしなやかさは存分に伝わってくるほど印象的である。移民として差別されながらも自由を謳歌する姿が胸を打つのだが、思い返してみれば舞台は1950年代のアメリカである。

男女平等の概念もおそらく浸透しておらず、それを象徴するようにラストシーンではトニーがエニイ・ボディズに「女は女らしくしてろ!」と言い放つ。人種差別にはスポットライトが当てられているが、男女差別の問題においてはいまだ放置された時代であることが感じ取れる。そんな状況の中で、マリアとアニタが「天」にある者として描かれているのはいっそ倒錯的とも言える。根本的に高貴な者と位置付けられているにもかかわらず、彼女たちを苦しめる差別の層はより深い。これもまた、内在する「対立」とみなすことができるのではないか。

赤と白が現実と理想をそれぞれ明確にしたように、女と男、そして敵と仲間を分断する「天と地」という「対立」も、『ウェストサイド物語』という作品を構成する重要な要素であることがわかる。しかし、作品を織り成す「対立」はこれで終わりではないのである。

 

③内と外⇒ジェット団とシャーク団/大人と子ども

赤白、天地、と来て、次に確認したいのは内と外の関係についてである。このふたつもこれまで見てきたものと同じくして、『ウェストサイド物語』に通底する「二項対立」を生産維持する役割を果たしている。

マクニーリー氏は今回の新演出について、「物語のすべてを“ストリート”で展開させる」という考えを述べている。確かに、旧演出とは異なりドックの店内でのシーンが減り、それをそのまま店外、つまり“ストリート”で行っている。のちにベルナルドとリフ、ふたりの少年の死、トニーの発作的な殺人へとつながる決闘の武器を決める軍事会議も、そしてトニーとマリアの仲を見守ろうと努めていたアニタの心を差別へとはしらせる暴行も、トニーがマリアの死を告げられ正気を失うのも、“ストリート”、外で展開されるようになるのである。この変更についてもう少し詳しく考察したい。

そもそも「内と外」の関係を考えたとき、最初に思い浮かぶのはなんだろうか。それは『ウェストサイド物語』の根幹である、ジェット団とシャーク団の関係性だろう。前者はイタリア系移民、後者はプエルトリコ系移民の若者グループであり、移民という意味では両者の立場は同質である。しかし、重要なことはジェット団が白人、シャーク団は白人でないというところにある。シュランク警部がシャーク団の肌の色を差別的に指摘したように、同じ移民でも人種差別の被害に遭うのはプエルトリコ系なのだ。ジェット団の少年たちも非行少年として世間からの無理解に苦しむが、それは人種差別ではない。つまるところ、アメリカにおいて白人であるがゆえに「内側」でいられるジェット団と、白人でないがゆえに「外側」の者として圧力をかけられるシャーク団という「内と外」の関係が、幕が開いた瞬間からすでに生まれているのである。このことは必ず頭に入れておかねばならない事実であり、この事実を踏まえたうえでいま一度“ストリート”に目を向けてみよう。

少年たちが外で物語を展開させているまさにそのとき、「大人」はどこにいるか? 迷うことはない、店の中、「内側」である。特にアニタへの暴行シーンでは、騒ぎを止められる大人であるはずのドックは、もはやアニタが深い傷を負ってしまうまで店の内側から出てこない。彼は折にふれて口先の忠告こそすれ、少年たちが道を踏み外すことからも、それによって少女たちが傷つくことからも、なにからも守ってはくれないのである。それがつまり「内と外」の関係の本質であり、ドックをはじめシュランクやクラプキといった大人たちの無理解を観客にまざまざと見せつけている。その瞬間、「内側」にいられるはずのジェット団の少年少女たちも結局は外にはじき出されてしまう、与太者・あまり者となってしまうことが浮き彫りになるのだ。マクニーリー氏の「物語のすべてを“ストリート”で展開させる」新演出は、意識的か無意識的か、こうした悲劇性をよりいっそう強いものとしている。

この「内と外」の「対立」の興味深い点は、もともとの対立の中にさらに新しい対立を生んでいる点である。多重の意味をもつ赤同様、『ウェストサイド物語』の対立構造をさらに複雑に、かつ奥行きのあるものにしている。一見シンプルに思える「二項対立」もよくよく考えてみるとけっして目に見えた通りではなく、アメリカがもつ「自由の国」の性質と、そこにはびこる差別のような矛盾点をそのまま映し出しているようにも見えるのだ。

 

④舞台と客席⇒見る者と見られる者/フィクションとノンフィクション

最後に、これまでの3点から少し視野を大きくして、『ウェストサイド物語』がまさに進行している場である舞台と客席の間に生まれている「対立」について見ていこう。ここでは新演出における変更点のひとつ、「鏡の不在」重要性が非常に深く関わってくる。

今回、新演出の『ウェストサイド物語』を初めて観たとき、個人的にもっとも印象深かったのは「役者が客席と向き合う」シーンが多く見られたことである。いや、実際にはそれほど多くはないかもしれないが、そう思わせられるほど効果的なタイミングでそのシーンが経ち現れるため、観劇後も尾を引くほどに印象的だった。そしてその「役者が客席と向き合う」演出の中でも、向き合い、さらに客席を鏡として扱う新たな試みには思わず目を瞠った。

たとえば、マリアが襟ぐりを開けてとアニタにせがむブライダルショップのシーンでは、すでにドレスを着込みメイクを施したアニタが客席に正面から向かって立ち、アイメイクを確認するような仕草をする。その後、渋々白いドレスを身にまとったマリアも前に進み出て客席と向かい合い、彼女の後ろに立ったアニタが「どう?」と声をかける。これらの場面において、旧演出で使用されていた姿見が撤去されたことを改めて踏まえずとも、それらの仕草が客席を鏡、姿見に見立てていることは火を見るよりも明らかだろう。また、「アイ・フィール・プリティ」のナンバーでも同様の変更点が確認された。旧演出においては「見てよ鏡の中を」という歌詞に合わせ、マリア、そしてシャーク団の少女たちはマリアの枕の下から取り出した鏡をのぞき込む。いかにも年ごろの少女らしい仕草だが、しかし、今回はその手鏡が消失しているのだ。マリアは「見てよ鏡の中を」と歌いながら両手を広げ、客席に視線をよこし、仲間の少女たちもそれに倣う。一見するとなんでもないような変更に思えるかもしれないが、鏡の代わりに客席を用いたこうした演出は、その瞬間舞台の根幹をひっくり返すほどの強い力をもっている。

そもそも基本に立ち返ってみれば、舞台と観客には「見られる/見る」という先天的に明確な役割分担がある。改めて言うまでもないが観客は舞台を、舞台上の役者を「見て」いるのであり、舞台は、舞台上の役者は「見られる」ことを生業としていることは自明であろう。しかし、役者が客席と向き合う演出は、自然の摂理のごときこの絶対的な関係を一瞬にして揺るがしているのだ。見られる者と見る者の逆転は、シンプルながら鮮烈なインパクトを与える。観客は「見られる」ことでいままさに自分自身が「見て」いる事実に気づき、気づかされ、それに気づいてしまったが最後、「舞台と客席」の間に生まれる圧倒的なまでの「対立」を目の当たりにする。つまり、自分がどんなに物語に入り込みキャラクターに感情移入していたとしても、彼らとの間には排除しようのない壁があることを思い知らされるのだ。それは逃れられない悲劇であるし、一方で逃れられない事実である。

ただ、悲劇を嘆くだけでは終われない。もう一度「鏡の不在」問題に目を向けてみれば、そこにはさらなる興味深い性質が隠されていることに気づく。マリアやアニタが客席に向き合い、鏡として扱うとき、客席は舞台の一部となり、舞台の中に取り込まれている。つまり、一度は明らかにされた舞台と客席との境界、「対立」がその瞬間だけは溶け合い、混ざり合い、曖昧になっているのである。見て、見られ、見られていることで見ていることを自認した(させられた)のち、その自認を破壊される。メタフィクション的とも言えるこの一連の演出はある種の恐怖感を観客に与えはしないだろうか。なぜなら、舞台=フィクションが、客席=ノンフィクションを操っていることに他ならないからである。

舞台を観に行く観客は当然、その舞台がフィクションであることを理解している。たとえノンフィクションの舞台だったとしても「舞台」である以上、その物語はフィクションである。あくまで事実に基づいて役者が演じ、照明や舞台装置、その他さまざまな要素を組み合わせて事実に「近づけた」にすぎない。幕が降りればその物語はそこで終わる。「舞台」であるがゆえに元来フィクション性を兼ね備えているからこそ、観客は安心してその物語の中に入り込めるのではないだろうか。

同様にこの『ウェストサイド物語』も、救いのないまったく悲劇的なストーリーではあるものの、それが作られたものであることは明白である。観客はその事実に安堵しあぐらをかいていたら一転、自らがその「作られたもの」の一部になってしまうのだ。舞台と客席という「対立」を確立させ、かつ消滅させる。鮮やかなその手法に、観客はまるで大蛇に飲まれては吐き出されるような感覚にすら陥るだろう。鏡ひとつを失ったことで生じたこの問題は、これまで見てきたどの「二項対立」よりも複雑で受け入れがたく、『ウェストサイド物語』のもつ「対立」の根深さに改めて背筋がふるえる。

 

 

以上、長くなったが、前置きで述べたように『ウェストサイド物語』というミュージカルに通底する「二項対立」、そこから読み解けることを自分なりにまとめた。もちろんすべて個人の主観的な考察にすぎず、また考察にあたって文献資料などには目を通していないため、中には根拠がなく突飛だと思われるものもあるだろう。しかし、この作品にふれ、この作品を愛する中で生まれた思考にわたしは価値を置きたい。自分自身のうちにおいてそれらを反芻しながら、『ウェストサイド物語』をよりいっそう深く愛していきたいと思うし、より多くの人にこの作品が愛されることを願っている。

 

「二項対立」についての議論はいったんここでピリオドとするが、今回の新演出の中でもうひとつ、まだまだ考察すべき事項が残っている。それはベイビー・ジョーンというキャラクターについてである。こちらは自分の中でもまだ納得のいっていない部分もあるのだが、新演出と旧演出を比較したうえで、現時点において彼について考えていることを簡単にまとめていきたい。

 

 

2. ベイビー・ジョーンの立ち位置

『ウェストサイド物語』のキャラクターの中でキーパーソンを答えよ、と聞かれたならば、私はいっさいの迷いもなくベイビー・ジョーンの名を挙げるだろう。ベイビー・ジョーンはジェット団の最年少であり、そしてもっとも「チビ」で、わかりやすく言うならば「弟キャラ」的存在のキャラクターである。しかし、旧演出で初めて『ウェストサイド物語』を観劇したときから、彼にはその「チビ」な見た目にそぐわない強大な、この作品の根幹にも関わるほど重要な役割を背負っているとわたしは考えている。その根拠として最大の要因は「サムホエア」でのベイビー・ジョーンの振る舞い方にある。

トニーとマリアが「どこかへ行こう」と願った「どこか」、夢想した理想の世界が「サムホエア」である。この場面において最初から舞台上にいるトニーとマリアを除けば、真っ先に登場するのが他でもないベイビー・ジョーンなのだ。上手側から腕で顔を覆いながら飛び出し、不思議そうに周囲を振り仰ぐ。彼に続いてエニイ・ボディズ、フランシスカと、ジェット団とシャーク団の少年少女たちもやって来るが、初めはみな一様に戸惑いの表情を浮かべている。その様子を見るに、突如として「なにもない世界」に放り出された彼らの現実はやはり、あの混沌した世界の方なのであろう。

しかし、自らがいま存在している場所を把握できず、困惑するのも無理はない不思議な状況下において、だれよりも先に踊り始めるのもまた、ベイビー・ジョーンである。彼は舞台を下手へ、そして上手へ、自由自在に駆け回り、あどけない笑顔で跳びはね、そして迷いなくエニイ・ボディズの手をとる。その様子は年相応に無邪気な少年のそれであり、薄暗い現実世界をひととき忘れさせてくれるほどに美しい。

『ウェストサイド物語』でも異質にすら感じられる、「サムホエア」という特別なナンバーにおけるこの一連の行動には、おそらく「ベイビー・ジョーン」ですらも想像しえないほどの重い意味が込められているのではないか。語弊を恐れずに言えば、彼はその場面では「ストーリーテラー」となる。

「なにもない世界」に突然放り出されて当惑しているのは、なにも舞台上のキャラクターたちだけではない。それまで、立て続けに起こる悲劇に心中かき乱されてきた観客とて同様である。目に痛いほどの白い世界が突如として眼前に現れ、必死に理解の行程をたどっているとき、真っ先に躊躇なく踊り、笑い、走り回っているベイビー・ジョーンはなによりも安心感を与えてくれる存在である。平たく言ってしまえばその世界が「良い場所」であり、無害で、幸福に満ちていることを言葉ではなく身体で雄弁に語ってくれるのだ。「なにもない世界」を前に反応を模索していた観客は、彼に「案内」されるようにして「サムホエア」の世界に足を踏み入れる。ベイビー・ジョーンは、彼の動作の一つひとつは、そうした意味でほかのどのキャラクターでも持ちえない影響力を有している。

では、なぜ「ベイビー・ジョーン」だけがその力を持つに至ったのか? なぜエニイ・ボディズや他の少年少女ではなく、彼なのだろうか? もう一歩踏み込んでこの疑問と向き合ってみたとき、彼だけが持ちえる少年性が鮮やかに浮かび上がってくる。最年少であること、不良少年の集団に属していながら、「スーパーマンが好き」と無邪気な気持ちを抱いていること、常にA-ラブと行動を共にし、庇護の下にあること、そうしたある種「ピーターパン的」とも表現しうる永遠の(と思わせる)少年性は、そのまま作品の「良心」につながっていく。「理想の世界」のストーリーテラーとして、明確な「良心」の表現者としての素質はベイビー・ジョーンにしか与えられない。

しかし、だからこそ、アニタへの暴行シーンでの演出変更は受け入れがたい。旧演出のようにジェット団のほかの少年に暴行を強要されているように映る演出であれば、衝撃的であることは変わらずともいささかは納得のいく流れである。つまり、ベイビー・ジョーンの「良心」そのものが汚されることはなく、加害者にされた被害者、といった視線で彼を解釈することができる。ところが、新演出では自ら進んで暴行に加担しているように見え、そこにベイビー・ジョーンというキャラクターの根幹にぶれが生じるのである。「サムホエア」で見せた純粋性にも説得力が欠け、結局ベイビー・ジョーンとはどういうキャラクターだったのか、足元がおぼつかなくなってしまう。

この変更の真意を探ろうとしたとき、最初に頭に浮かんだ可能性は「大人世界への憧れ」であった。安直すぎる幼稚な思考かもしれないが、常々「チビ」で「弱虫」扱いされていた彼は、周りのジェッツの少年にはやし立てられ、その少年性を放棄したいという欲求に突き動かされたのではないか。相手がアニタであるか否かにかかわらず、その機会をものにしたいと思ったのではないだろうか。あるいは、そうした思考が生まれる隙すらないままに、その少年性をいわば奪われてしまったのではないか。ドックの怒声に怯えているように見えるのも、自らが少年性を喪失したことに対する恐怖を自覚したからだという理由であれば、納得はいかないかもしれないが可能性のひとつとして選択できる。

わたしにとって、新演出におけるこのシーンの衝撃がもっとも悲劇的なものとして映る。高貴なアニタを汚され、無邪気なベイビー・ジョーンが消滅し、自分自身が置いてけぼりを食らったような悲しみでいっぱいになる。彼を信じて受け入れたサムホエアの世界もどこかに霞み、理想の世界はやはり存在しないのだという絶望と無気力感に襲われる。ベイビー・ジョーンという重大な責任を負ったキャラクターに、その核心に、これほどまでに残酷な変更を加えたのはいったいなぜなのか。その真意をわたしはいまだ、つかめていない。

 

 

最後にひとつだけ、わたしが『ウェストサイド物語』という作品に抱いているものは愛しかないということだけを強調して終わりたい。旧演出でも新演出になってもわたしはこの作品を愛し、敬い、もてる限りすべての誠意をもって向き合っていきたいと思っている。

 

劇団四季の『ウェストサイド物語』東京公演は2016年5月8日までの上演となっている。この機会に、「神が宿ったミュージカル」を、ぜひ。

 

www.youtube.com

*1:劇団四季公式Twitter・2016/02/06のツイートより

*2:『ラ・アルプ』2016年2月号,P14

*3:『ラ・アルプ』2016年2月号,P14

*4:『ウェストサイド物語』2016年版パンフレット,P20