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わたしは今日、わたしのためにわたしの話をする。

 

生きることについてずっと考えていた。生きる意味、生きていく意味、生きるとはどういうことか、生きること、生きていくこと、生きるうえで決して避けられない、生きた者と生きた者とが互いに関わりあうこと、そういう「生きる」ことにまつわるすべてについて、ずっと考え続けていた。哲学者ぶりたいわけではなく、高尚ぶりたいわけでもなく、ましてなんらかの真理にたどり着こうというのでもなく、ただ自分の内側から沸き起こる自然な感情のまま、生きることについて考えていた。

そもそもの原点に立ち返ってみると、わたしは、自分が生きること、生きていることについてさっぱり自信がない。生存している自覚がない、あるいは希死念慮を有しているという意味ではなく、自分で自分の生を肯定する能力を持っていない。これが実際に見て悲しいことなのかどうかは自分ではわからない。しかし、おそらくわたしは、心の奥底ではそれを世界で一番悲しいことだと思いたがっているのだと思う。

 

幼いころから、わたしの存在価値はわたし自身の中ではなく、紙面の数字の中にあった。

わたしの母は厳格な完璧主義者だった。生来のものであろう自他ともに認める優秀な頭脳と、その優秀な頭脳を保持する努力ができる気概と、自分に対しても他人に対しても厳しく立ち向かう強靭な精神と、裏返しにそれゆえの脆さ、ときには幼さとも言える純粋さを併せ持った人だった。

母は常にわたしのことを数字越しに見ていた。と、娘であるわたしはずっと感じていた。あの家の中では、あの母の前では、成績に反映されない小テストだろうと学期末の重要な試験だろうと、それが持つ意味合いの重大さに因らず、すべての紙の上でどれだけの数字を取ってこられるかがわたしの価値に直結していた。どれだけ努力しても、どれだけ100に近い数字を取っても、100でなければわたしの存在価値は0になった。わたしは自己の価値の決定権を掌握していた母を恐れ、うさぎ小屋に追い立てられるうさぎのごとく、ノートとペンに縋りつくようにして勉強していた。

 

いつだっただろうか、中学生だったか、高校生だったか、試験で普段よりも低い数字しか取れなかったことがあった。母は結果の印字された紙を見て、わたしの方を見向きもせずに「あんたは失敗作だ、産まなきゃよかった」と吐き捨てるように言った。

何年経っても忘れられない。「失敗作」という言葉がずっと耳の奥にこびりついている。「産まなきゃよかった」という言葉がずっと脳裏に居座っている。わたしの根底にあるわたし自身の生の無価値感、肯定することへの恐怖は母の言葉によって頑丈に固められて、覆されることがない。あれからそれなりの歳月の経ったいまもまだ、そんな思いにとらわれたままでいる。

 

思えば、常に否定されながら育てられていたと思う。産もうと思って産んだんじゃないという言葉も、両親の不仲の原因はすべてわたしにあるとなじられたことも、英語のスペルミスを指して頭が空っぽだから覚えられないのだと叱責されたことも、わたしの悩みはすべてわたしが馬鹿だから悪いと断言されたことも、わたしにとっては否定の記憶となっているのだと思う。思う、というのは、そうは思いたくない自分がまだしぶとく生き残っているからだということも知っている。

いまだったらわかる、完璧主義であるがゆえの繊細さが、厳格であるがゆえの弱さが、母からそれらの言動を引き出したのだろうといまなら想像できる。否定はされ続けたけれど、決して愛されてなかったわけではないのだ。母は母なりにつらかったのだろう。この私から生まれたのだからできるはずだと、私の娘なのになぜ私よりも出来が悪いのかと、きっと自らに失望して責め苛まれた夜もあっただろう。もしかしたら母も、過去に同じ言葉を投げかけられ、苦しみながら生きてきたのかもしれない。真実はわからない。しかし、いま、母のもつたったひとりの娘であるわたしはそう確信している。

愛されている、わたしが母を愛しているように母もわたしを愛している。自分のためにも、わたしはそれを愛と呼びたい。

 

けれど、それではだめだったのだ。わたしは生きた人間として、生きた人間のままの価値を母に認めてもらいたかった。数字越しではなく、わたし自身を直接その目で見てほしかった。変わりながら変わらないわたしを、変わらずに、変わる努力を要求されないまま愛してもらいたかった。あんたよりもペットの方がかわいい、あんたはいらない出ていけと言うのではなくて、世界一かわいい、世界一愛してる、世界一必要だと言って抱きしめてほしかった。いまじゃない、小学生のときに、中学生のときに、高校生のときに、わたしが母の弱さに気づいてしまう前に、だれよりも真っ先にそうしてほしかった。

 

自己の生を見つめ、受け入れ、認めるしたたかさは、わたしの内側にはない。わたしはわたしの実感をつかむことができずにいる。だからといってこの脆弱な精神構造すべての責任を母ひとりに背負わせたいわけでは決してない。母が固めつくりあげた基盤の上に乗っかったのは、そして乗っかり続けているのはまぎれもなくわたし自身の選択だ。

自己嫌悪、自己否定とは最大の自己愛である。わたしがわたし自身を嫌悪して否定しているかぎり、わたしはわたしの生から逃れることができる。自分を愛さないでいることはとても楽で、一見苦しいことのようでいてその実とても心地の良いことだ。あらかじめ否定しておけば万が一第三者に否定されても必要以上に傷つかずにすむ。保険をかけて一線を引いて囲いをつくって、他者からも、あまつさえ自己からも自分自身を遠ざけていれば、なにもかもを他人事にしてしまえる。これほど安らかな生き方はない。

自分と向き合い、自分を受け入れる責任は重く、途方もない勇気と労力と、豪胆な精神が要る。わたしは過去をかき分けて体の良い言い訳を一つひとつ探しだしては、いまなおその作業から逃げ続けているにすぎない。もうずっと前から気づいていた。

 

わたしですら肯定できないわたしの生を、ならいったいだれが肯定してくれるというのだろう。わたしのさもしいところは、自分の意志で自分を肯定せず怠慢を貫いているにもかかわらず、その欲望を捨てきれないところにある。そして、わたしは安易にもその役目を外部に求めてしまった。

 

「あやめ」を初めて聴いたとき、見たとき、受け取ったとき、腹の真ん中を拳で殴られたような衝撃を受けた。素舞台ではないとわかっているけれど素舞台を見ているときのような、心の表皮を一枚一枚丁寧にはがされていくような、「直接身体の中に手が入ってきて心臓にタッチされた」ような、そんな感覚に陥ってただ息を吸って吐くことすらも躊躇った。わたしがわたしにかけた保険も、強く引いた一線も、高く築いた囲いも、なにもかもが一瞬にして無に帰した。

肯定されたと思った。「アイドル」でも「神様」でもない、ほかのだれでもない生きたひとりの人間としてそこに立つしげの姿を、ほかのだれでもない生きたひとりの人間としてわたしが受け取ったことが、受け取れたことがなにより嬉しかった。素手でハートをさわられるのは痛くて、つらくて、けれどそれ以上に幸せなことだった。ずっとだれかに抱きしめてほしかったところをやっと抱きしめてもらえたと思った。どんなに物理的な距離が間に横たわっていたとしても、「あやめ」を受け取っている間は世界にたったふたりきりで、手をつないだままでいられた。数字の上のわたしではなくわたしの中にいるわたし自身を、わたしが生きていることそのものを受け入れてもらえた、愛されたと思った。

胸の中にしげの呼吸と鼓動を感じて、たまらなくて、許されるなら子どものように声をあげて泣きたいくらいのままならなさ、その感覚をこそわたしは愛だと信じたい。だれにも侵されたくない、だれにも奪われたくない唯一の宝物として、心の中の一番ピュアな部分に大事にしまっておきたい。それができないならもうなにも要らない。

 

他者の作品をしてこんなふうにとらえるのは、ともすれば間違っているのかもしれない。けれど、「あやめ」の言葉はわたしが長い間叫びたがっていた言葉でもあった。他者が、しげがくれた嘘偽りのない愛でもあり、わたし自身がずっと考えていた生きることの中身でもあった。歌詞の意味が余すところなく理解できるとか、演出の意図を違わず言い当てられるだとかそういったことではなく、ただ、同じなのだ。きっとそれはわたしが「あやめ」という作品を無意識的に内側に取り込んでしまったから、そう感じるしかできなくなってしまったのだと思う。望むと望まざるとにかかわらず、だれかやなにかを自分から完全に切り離したまま大事に保存することは難しい。自分の内側に自分でないものを置いておくのは危険で、もっとも避けるべき行為なのに、わかっていたのにそういうことを考える間もなく同じだと思った。

わたしがこんな話をしだしたのも、あの日、「加藤シゲアキ」の「あやめ」ではなく、「わたし」の「あやめ」を内側から無理やり引きずり出されて、大勢の前で見世物のように高々と掲げられたと感じたからだ。抱きしめてもらったものを土足で踏みつぶされる感覚がしたからだ。わたしはそれを愛とは呼びたくない。許したくない。年を重ねておとなになって穏やかになって、たくさんのものごとに気づいて、母に対してそうだったようにいつか許せるときが来たとしても、許さないわたしの存在ごと許さない。わたしの受け取った愛はたったひとつしかない、そのたったひとつだけでいい。

 

わかっている、そんなこと「知ったこっちゃない」のだ。わたし以外の世界中すべての人にとって、母にとってすらも、わたしがいくら言葉にして表したところでわたしのことなど本質的には「知ったこっちゃない」。まったく関係がないことだ。だれかを、なにかを、しげを好きだと思う気持ちも、わたし以外になんの関係もない。わたしが「あやめ」を、「加藤シゲアキ」を、自分の内側につくりあげてしまったことはわたし自身の責任でしかない。もっとも避けるべきことを避けられなかった、その結果を背負っていくしかない。自己嫌悪の上に安寧することを選んだように、わたしはその責任と結果を引き受けて突き立てられた刃物を、痛みや悲しみや憎しみをずっとそのままにしておく。それが正しいことなのかはわからないし、だれのためになることでもない。だからここまで文字にしてきたことのすべては、世界中のほかのだれでもなくわたし自身のためだ。

 

あのとき胸の内に感じた温度を、生と愛を越え死に至る虹を渡っていく姿を忘れない。いつか必ず忘れるときが来るとしても、しげがしげでわたしがわたしであるかぎり、生きていて、変わるけれど変わらないままでいるかぎり生涯かけて覚えている。生きた人間から、生きた人間として愛を受け取った、その事実だけを最後まで持ち続ける。