2016.08.27-28

*最初から最後まで、気分の良い内容ではありません。

 

 

 

終わった。長かった。苦しかった。24時間テレビメインパーソナリティ発表の日から今日この日に至るまで、5か月にも及ぶわたしの苦しみの日々がやっと、やっと終わりを迎えた。

 

わたしがどんな気持ちでメインパーソナリティ発表を聞いたか、あるいはドラマ主演の話を聞いたか、どんな気持ちを抱えながら、どんなことを考えながらここまで来たか、そして番組を見つめていたか、それらをいまここでいちいちつまびらかにするつもりはない。もう終わったことだ。振り返りたくもない。

ただ、いまこの瞬間、どうしても文字にして残しておきたい、残しておかなければならないことだけを、純粋な事実として記したい。そのことによってだれを批判するつもりも、否定するつもりも、だれかをどうにか、なにかをどうにかするつもりは毛頭ない。ただただ自分の主観の記録として、書き留めておきたいと思う。

 

あの事件が発覚し、報道されてから、わたしは一度も表立ってそのことにはふれなかった。ファンが怒りや悲しみに暮れ、失望し、NEWSや番組制作側、出演する方々に激励の言葉を綴る中、あえて一言たりともそのことに、それに関することにふれてこなかった。

だって、わたしには理解できなかったのだ。

事件の報道直後、加害者への憤りを露わにする言葉を数多く目にした。馬鹿野郎、許さない、どうしてくれると言葉を選ばずなじる人もいたし、どうしてこの時期に、なにもいまでなくていいのに、と失望する人もいた。それもそうだろう。NEWSにとっては7年ぶりの、そして4人になって初めて勤める24時間テレビメインパーソナリティという一大仕事を目前に控えていながら、番組自体がどうなるのか、ドラマはどうなるのか、先行きを一気に曇らせる出来事があったなら、ファンであれば計り知れない不安に駆られるのも無理はない。その自然な感情を責めるつもりはない。

でも、わたしは怖かった。そうやって多くのファンが憤っているのは、事件の内容そのものに対してではないのだろう。それ自体ではなく、事件が番組に及ぼす影響をこそ見ているように感じられて、恐ろしくなった。企画の差し替え、ドラマの撮り直し、番宣のお蔵入り、確かに事件に起因する影響はとてつもなく大きい。残り数日でこれらの問題に立ち向かわなければならない状況も、不安感と焦燥感を煽る一因となっていただろう。

「NEWS頑張れ」「NEWSはこんなことに負けない」「NEWSならピンチをチャンスに変えられる」「NEWSには追い風が吹いている」──NEWSは、NEWSなら、NEWSだから……まるで自らを鼓舞するように、繰り返し繰り返し、ファンが口々に羅列する言葉たちにわたしは吐き気が止まらなかった。どうしようもない怒りと悲しみに襲われた。息ができなくて、苦しくて、とても耐えられなかった。

 

わたしは性的暴行の被害に遭ったことがある。

見知らぬ男性に突然、無理やり抱きつかれた。胸をさわられ、尻をさわられ、無理やりキスをされて、性器に指を入れられた。

痛くて怖くて気持ち悪くて、逃げたかったのに逃げられなくて、怖くて、痛くて、それ以外なにも考えられなかった。とてもショックだった。事実を受け入れられなかった。自分が被害に遭ったと思いたくなくて、たかが指じゃないか、たいしたことないと思い込もうとした。自分で自分の傷を認めたくなかった。

それでもひとりで抱えるには大きすぎて、信用していた友人に勇気を出して相談したら、「そうなんだ。でも、多少は仕方ないよね」と言われた。わたしのされたことは「仕方ないこと」なのか。あの痛みも恐怖も、自分だけでなくだれにも傷としては認めてもらえないのか。

思い出したくもないのにあの日のことがいつも脳裏に浮かぶ。考えたくないのに、どうしてもっと抵抗しなかったんだろう、もしスカートをはいていなかったら、あのときあそこにいなかったら、あんなことにはならなかったかもしれないのに。そんなことばかり考えてしまって、自分を責めて、腹立たしくて、悲しくて、やるせなくて、でも認めたくなくて、認めてもらえなくて、どうしようもなかった。

あの日以来、どこにいてもなにをしていても、どこかに必ず無力感のようなものがつきまとうようになった。どうせおまえは人間扱いされない存在だから。だれかにずっとそう囁かれている気がした。

 

このピンチをチャンスに変える、NEWSなら変えられる、成功を祈ってる、ファンがそうやって前向きに、明るく素直に応援しているのを見て、もし被害を受けた女性やその家族がそれを目に、耳にしたらどう思うのだろうと思ってしまう自分がいる。女として、人間として踏みにじられ、深い傷を負い途方もない苦痛に苛まれているに違いないのに、そんなときにそんな言葉が目の前に現れたら? そのことそのものではないにしても、そこから生まれたこの一連の出来事を「チャンスに」と言っている人たちの存在を知ったら、どう感じるのだろう。そう思うと怖くて仕方がなかった。

もちろんファンみんなが事件そのものを指して「ピンチ」と称しているわけではないことはわかっている。事件を軽んじているわけではないことを知っている。頭ではちゃんと理解していても、どうしても自分の経験と勝手に紐付けて勝手に傷ついている自分がいる。苦しい。もしわたしだったら身体に受けた傷とこころに受けた傷と、その後に蔓延する不特定多数からの無自覚の言葉による傷できっと何度でも死ぬ。とても苦しかった。わたしはそんな集団に属していたくないとすら思った。

 

情報番組でしげがこの事件について、「ドラマや番組は撮り直しやキャンセルがきくけれど被害女性の人生の傷は取り返しがつかない」とコメントしていた。人間扱いしてもらえたと思った。

こういうことを言える人だから好き、なんじゃない。好きな人にこういうことを言ってもらえたことが、たとえわたしに向けられたものじゃなかったとしても、わたしにはとってはただただ救いだった。傷を傷として認めてもらえた気がして、やっと、自分でもそれを傷と認めてあげられた。

けれど、それと同時にしらけてしまった。涙に安いも高いもない、軽いも重いもないのに、そんなことないってちゃんとわかっているのに、そのコメントを受けて泣き出したりしげをかっこいいと誉めそやしたりしている人たちを見て、こころのどこかで、やっすい涙、と最低なことを思ってしまう自分に心底しらけてしまった。結局自分はこういう人間なんだと思い知らされたように感じて、余計に悲しく、寂しくなった。

 

繰り返すがこの記事を書くことによってだれかを批判したり、責めたり、ましてや言論統制したりするつもりは微塵もない。わたしが責めたいのは自分自身だけだ。ファンの明るく前向きな姿勢を受け止められなかった自分の、「楽しみにしててね」というしげの言葉に最後まで素直に頷けなかった自分の、さもしさやこころの狭さ人間としての矮小さをわたしは忘れたくない。忘れてはいけない。抱えていること、抱えていくことを受け入れ人間として生きていくことを忘れない。そのためにいまここに形として刻みつけておきたかった。それだけは断固として勘違いしてほしくない。

 

 

 

『盲目のヨシノリ先生』を見ながら、たくさんいろんなことを考えた。どんな境遇に陥ったとしても人間が人間として尊重され、愛され、生きていくこと、しげが主演を務める意味を見つめながら演じた作品を、演じている姿を、わたしがわたしとして見つめていること。苦しくても、つらくても、複雑でも、目をそらさなくてよかったと思えた。苦しいという気持ちはいまだ消えないけれど、わたしはわたしの壁をまだ乗り越えられないけれど、こころの真ん中がそっとあたたかくなるような物語を、しげがくれたその気持ちを、わたしはずっと抱きしめていたい。たとえそれが肥やしになってもならなくても、それはなにより大切なものとしてずっとここにある。